乃木坂浪漫 ep87 12.08.29 川後陽菜 × 夏目漱石『文鳥』

乃木坂浪漫 ep87 12.08.29 川後陽菜
开场白:斎藤ちはる
朗读作品:夏目漱石『文鳥』

明治41年于大阪朝日报纸上连载的短篇小说,被认为是描述「美好的事物的死亡」的作品。

翌朝(よくあさ)眼が覚めると硝子戸(ガラスど)に日が射している。(たちまち)文鳥に餌をやらなければならないなと思った。けれども起きるのが退儀(たいぎ)であった。今に()ろう、今に遣ろうと考えているうちに、とうとう八時過になった。仕方がないから顔を洗う(ついで)(もっ)て、鳥籠を明海(あかるみ)へ出した。もっと早く起きたかったろうと思ったら気の毒になった。
(あく)()もまた気の毒な事に(おそ)く起きて、籠を出してやったのは、やっぱり八時過ぎであった。それでも文鳥は一向不平らしい顔もしなかった。籠が明るい所へ出るや否や、いきなり眼をしばたたいて、心持首をすくめて、自分の顔を見た。
昔し美しい女を知っていた。この女が机に(もた)れて何か考えている所を、(うしろ)から、そっと行って、紫の帯上(おびあ)げの(ふさ)になった先を、長く垂らして、頸筋(くびすじ)の細いあたりを、上から()(まわ)したら、女はものう気に後を向いた。その時女の(まゆ)は心持八の字に寄っていた。それで眼尻(めじり)と口元には(わらい)(きざ)していた。文鳥が自分を見た時、不図この女の事を思い出した。この女は今(よめ)に行った。
目が覚めると、外は白い霜だ。この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出る(けぶり)行方(ゆくえ)見詰(みつ)めていた。するとこの煙の中に、昔の女の顔が一寸見えた。寝巻の上へ羽織を引っ掛けて、すぐ縁側へ出た。文鳥は箱から出ながら千代千代と二声鳴いた。

乃木坂浪漫 ep86 12.08.28 和田まあや × 寺田寅彦『糸車』


乃木坂浪漫 ep86 12.08.28 和田まあや
开场白:斎藤ちはる
朗读作品:寺田寅彦『糸車』

身为物理学家、又同为夏目漱石的资深门徒,拥有多重身份而为人所熟知的寺田寅彦,于昭和10年发表的随笔。

大概(たいがい)車の取っ手を三廻す間に左の手が延び切って数十センチメートルの糸が紡がれ、それを巻き取ってから、また同じ事を繰返(くりかえ)す。そういう操作のために糸車の音に特有なリズムが生ずる。それを昔の人は「ビーン、ビーン、ビーン、ヤ」という言葉で形容した。
「ビーン」の部で鉄針とそれにつながる糸とが急速な振動(しんどう)をしているために一種の楽音が発生するが、巻き取るときはそうした振動が中止するので音のパウゼが来るわけである。要するにこの四拍子(よんぴょうし)の、およそ考え得らるべき最も簡単なメロディーがこの糸車という「楽器」によって奏せられるのである。 
昔の下級士族の家庭婦人は糸車を回し手機を織ることを少しも(はず)かしい賤業(せんぎょう)とは思わないで、つつましい(ほこ)りとしあるいはむしろ最大の楽しみとしていたものらしい。ピクニックよりもダンスよりも、婦人何々会で()け回るよりもこの方が(はるか)に身に()みて本当に面白いであろうということは、「物を作り出すことの喜び」を解する人には現代でもいくらか想像ができそうである。
シューベルトの歌曲「糸車のグレーチヘン」は六拍子であって、その伴(ばんそう)のあの特徴(とくちょう)ある六連音の波のうねりが糸車の廻転を象徴しているようである。これだけから見ても西洋の糸車と日本の糸車とが全くちがった詩の世界に属するものだということがわかると思う。
こんなことを考えていると、自分がたまたま貧乏(びんぼう)士族の子と生まれて田園の自然の間に育ったというなんの誇りにもならないことが世にも仕合わせな運命であったかのような気もしてくるのである。

乃木坂浪漫 ep85 12.08.27 畠中清羅 × 宮沢賢治『よだかの星』


乃木坂浪漫 ep85 12.08.27 畠中清羅
开场白:斎藤ちはる
朗读作品:宮沢賢治『よだかの星』

作者去世的次年(1934年)发表的短篇童话作品。(字幕中“六年”为误译)

よだかは、実にみにくい鳥です。
顔は、ところどころ、みそをつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。 
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。
一たい(ぼく)は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は()けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん(ぼう)のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。
 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや(しも)がまるで剣のようによだかを()しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって()りました。
そして自分のからだがいま(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています。

乃木坂浪漫 ep84 12.08.23 市來玲奈 × 坂口安吾『日本文化私観』


乃木坂浪漫 ep84 12.08.23 市來玲奈
开场白:星野みなみ
朗读作品:坂口安吾『日本文化私観』

身为无赖派的作家坂口安吾在战时发表的随笔作品。

伝統とは何か? 国民性とは何か? 日本人には必然の性格があって、どうしても和服を発明し、それを着なければならないような決定的な素因があるのだろうか。
昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われて、外国には行われなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。
キモノとは何ぞや? 洋服との交流が千年ばかり遅かっただけだ。そうして、限られた手法以外に、新らたな発明を暗示する別の手法が与えられなかっただけである。日本人の貧弱な体躯が特にキモノを生みだしたのではない。日本人にはキモノのみが美しいわけでもない。外国の恰幅(かっぷく)のよい男達の和服姿が、我々よりも立派に見えるに極っている。
新らしい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。
日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑(びんしょう)が甚だ浅薄でしかないのである。